沖縄戦を学ぶ

知られざる鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)・通信隊

『ひめゆり学徒隊』を知らない人はいないだろう。女子に看護隊があったように、男子学生にも学徒隊はあった。鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)と通信隊である。

太平洋戦争末期の1945年3月、日本軍は米軍の沖縄上陸を予測し、県内のすべての学校に学徒勤労動員令を発令。これにより、中学、実業学校に通う16〜20歳前後の男子学生は鉄血勤皇隊、14〜15歳の学生は通信隊として教員の引率もないまま戦場へ送り込まれた。

物語の中に登場する主人公・玉那覇亀吉、同級生の繁、比嘉、忠昭は16歳。鉄血勤皇隊として首里司令部壕の近くで様々な任務についていた。

鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)
(沖縄県立一中・第58期生アルバム「想ひ出」より)

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学徒兵の任務

地上戦が始まる1年半前の1943年秋から、ほとんど授業は行われなくなり、学生たちは壕を掘ったり、読谷まで飛行場を作りに行ったり、アメリカ軍上陸に備えて勤労奉仕の日々を送っていた。

軍事教練も増え、モールス信号を打ち、解読する通信教育や、タコツボ攻撃や斬り込みといった人を殺す訓練も受けた。タコツボ攻撃は爆弾が入った箱を背負ってあらかじめ掘っておいた穴に入り、敵の戦車が来るのをじっと待ちうけ、目の前まで戦車がやってきたら、キャタピラの下に爆弾の箱を投げつけるというもの。斬り込みとは手榴弾や刀を持って敵陣へ夜襲することを言う。

彼らの戦場での任務は実に様々で、通信兵は主に各部隊への連絡業務を行い、砲弾を受け電話線が切れたらその復旧工事、復旧されない場合は砲弾が飛び交う中、電報を持って走るという命がけの任務をさせられた。

一方、鉄血勤皇隊は炊事、食糧探し、砲弾運び、壕掘り、負傷兵を運ぶなどの雑務的なものから、住民たちに戦況を知らせに行き、人々の戦意を向上させる情報宣伝や斬り込み、タコツボ攻撃といった過酷な任務まで背負わされていた。

女子学生は3カ月ほどの簡単な看護訓練を受け、地上戦がはじまると野戦病院で負傷兵の看護にあたった。看護と言っても名ばかりのもので、薬も包帯もほとんどなく、麻酔なしの手術が日常だった。15〜19歳の乙女たちは笑うことも忘れ、のこぎりで切断された手や足を運びだしたり、負傷兵の下の世話、死体の埋葬や、食事や水汲みなどありとあらゆる仕事をこなした。

鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)
(昭和17年頃.養秀同窓会『目で見る・養秀百十年』より)

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解散・終戦

日本軍は首里の地下に実に巨大な要塞都市を築いていた。しかし米軍の攻撃は予想を超え、5月27日、南部への撤退を余儀なくされる。激しい豪雨が降り続ける中を、学徒兵たちは自分の体重より重い荷物を抱えて、徒歩で南部まで行ったものの、6月18日、学徒解散命令が下る。お国のためにとこれまで必死で働いてきたが、突然軍から見放されてしまったため、多くの学生が絶望に駆られ自決や斬り込みで命を失った。

そして6月23日、牛島満軍司令官が自決。この日をもって沖縄における日本軍の組織的戦闘が集結。しかしそれでもなお米軍は南部一帯を激しく攻撃してきたため、軍と共に南部へ避難して来た住民や学徒兵たちは海岸まで追い詰められ、多くの人々が犠牲となった。摩文仁の海岸は死体でいっぱいになり、真っ赤に染まったという。

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戦場へ行った2400人

<男子学生> 沖縄師範学校男子部、県立第一中学校、県立第二中学校、県立第三中学校、県立農林学校、県立水産学校、県立工業学校、那覇市立商工学校、私立開南中学校、県立宮古中学校、県立八重山中学校、県立八重山農学校 総計約1800名が学徒兵として戦った。

<女子学生> 沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校、県立第二高等女学校、県立第三高等女学校、沖縄県立首里高等女学校、私立積徳高等女学校、私立昭和高等女学校、県立宮古高等女学校、県立八重山高等女学校、県立八重山農学校(女子) 総計約600名が看護隊員として負傷兵の看護にあたった。

男女合わせて約2400名の学徒兵のうち約1300名が命を落とした。

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